夜雨

疲れているが眠れない。僕は部屋でひとり。スマホは枕の下に突っ込んで、音楽も止めて椅子に座る。そして目を閉じてみる。両の手のひらで両目を覆う。まるでゴッホの描いた「悲しむ老人」みたいに。

それでもまだだめみたいだ。いっそ室内灯も消してしまおうか。カーテンと窓は開け放とう。

いい感じだ。もう一度目を閉じる。今度はまぶたの上に手を当てる必要もないみたいだ。僕は背もたれに軽く身をもたせかけて、ゆっくりゆっくり息をする。網戸を通り抜けて雨音と冷たい夜風がこの暗い部屋に漂ってくる。いい感じだ。

ここは福岡空港の近くにあって、まだ遅い夜ではないから、夜間飛行の旅客機が、どこかへそしてどこかから、行ったり来たりしたりしているし、絶えず車が路面の雨水を弾き飛ばしているけれど、それは全然気にならない。

僕はまだ軽く目を閉じたまま。

二度と繰り返されることのない、一度っきりの雨音のリズム。それに飛行機や車やときおり声も聞こえてきて、一つの音楽を奏でている。二度と繰り返されることはない。記録されて世に残る、どんな名演奏とも異なるものだ。ほら、雨の勢いが突然強くなってきた。音量が上がってゆく。この展開は読めなかった。更にぐんと雨の音が大きくなって、雨粒があらゆるものを打ち付ける音が聞こえてくる。街全体が音を鳴らす。

そして穏やかになる。それでもこの音楽は急に鳴りやんだりはしないだろう。いい感じだ。

気持ちがとても楽になる。まだ眠れなくても焦る必要なんてない。夢見る代わりにランプをつけて身体を楽にすればいい。そしてお気に入りの小説を開き、物語の世界へ遊びに行こう。

詩の墓場 第二

まともに書く時間がないけれどブログの更新は続けたい。ので昔書いたものを引っ張り起こす。コピペと添削くらいならバイトの休憩中や移動時間でなんとかなるからだ。そうしてまたまた詩の墓場。

働いては次の職場、働いては次の職場。内臓が気持ち悪くなってきて、この生活を続けるのはまずいと感じている。

 

さて、簡単に作品の説明をしておく。最初の中途半端な擬古典風「祈り」はいつどのように書いたか思い出せないけど、気に入っている。最初のうちのいくつかをここに載せる。

次の短文群は、東京にいるとき、アスタが主催のグループ展に参加した時に書いた「精神の砂漠」という一連の文章からいくつか抜粋したものだ。読んだことのある人はほとんどいないと思う。

続いて「分解された恋」と「わたしの惑星」という詩だ。これは投稿した詩の一部だが、掲載されたか確認してない。されてないだろう。大したことのない習作だ。

 

「祈り」

朝顔の蔦がわが首をなどる

あゝ美しく死にたゐ

 

ぼくはぼくが

無名であることに

もはや耐えられなゐ

ぼくの肥大化した自意識は

悪性に変異しつゝある

 

幽閉 夜光する窓の内には

朝の曙光は差し込まなゐ

液晶の前で動作が止んで

苦い死を味わふ

 

光の満ちた部屋

エジソンが神を隠したんだ

まがい物の神の嬌声が続く

もはや救いは福音と光ではなく

静寂と闇にこそある

 

「精神の砂漠」

 

・ 行列はどこまでも続いていて、道に沿って進んでゆく。絶え間ないおしゃべりをしながら行進は続く。「どこに向かっているんだ?」と誰もが何度も思ったが、そのことを口にする者は少なかった。

 

・美しい野花の道を脇目もふらず早足で通り過ぎる。鎌倉で紫陽花の写真を撮るために。

 

・ある日目が覚めると、私は道の真ん中に横たわっていた。立ち上がりはしたものの、自分が今どこにいて、これからどこへ行けば良いか分からない。途方にくれた私は再び路上に身を横たえた。

 

・男は川に身を投げてみたものの、水深は浅く、男はどこへも運んでもらえずにただ血にまみれたまま突っ立っていた。

 

・私は骨折をしたこともなければ入院するほどの大病にかかったこともない。それはそれで、カラーボールがいっぱい詰め込まれた部屋の中にひとり取り残されているような感じだ。

 

・方位磁針が手に入ったが、サイコロがなくてはどうしようもない。

 

・人間は個人の意思と力でこれから歩んでゆく道を決定できると信じている。同調圧力と先導に身を任せ切った羊の群れとは違うのだと。

 

 

「わたしの彗星」

              

わたしの彗星がきえた

ネットで調べたり友達に聞いてみても

この上空にずっと浮かんで動かない

たった一つの彗星があったってこと

ほんとうにだれも知らなかった

昼も夜もなくそこにあったのだけれど

スマホで撮っても

濁点のようにしか映らなかったし

じつはわたしもそこまで気にかけていなかった

忙しかったしちょっと病んでた時期だったから

それでも彗星がこの空から突然いなくなって

言いようもない後悔にかられた

あの彗星は決して忘れられない何かだった

近ごろはわたしが彗星になっていて

宇宙を落下し続ける夢まで見るようになった

それからというもの

干上がった雨の海に立って

瞬きもせずに探している

まるでキューブリックモノリスみたい

そしてある日

わたしの彗星は太陽に衝突したんだってわかった

ちぎれた銀河みたいな一条の涙だけを残して

 

 

「分解された恋」

 

吸って吐いては目はうつろ

 

おれのピントはボケてるらしい

面倒なこと 欠如したもの

なにかが違うしどこか合わない

それはいつも通りのことだった

期待は絶対叶いやしない

 

コンビニでチョコレートバーをたくさん

蛍光灯の光がにじむセラミックの床

退屈な音楽と清潔な闇

レジ係はおれの罪を見抜いている

口の中を湿った肉がうごめき

脊椎の痺れが思考にまで取り憑く

 

道ばた枯れた土 蹴って昔を掘り返し

口から垂らした欲望と混ぜる

幽霊みたいにうつむいて

じっと足元を凝視めていると

かつて親しかったひとの声がきこえる

 

いろんな人がいろんなことを喋っていて

ただなんとなく気が滅入る

不純な血が心臓に押し出され全身を巡る

感度が乱高下する

 

ビニール袋が音を立てて転がっていく

ビルの窓 張り付いている耳と目と口

ビル 管 ビル ビル  ビルを這う管

生物的な襞襞(ひだひだ)にいずれみんな呑み込まれる

 

内側からサイレンが鳴る

 

これこそが恋しいって気持ちなんだって

落語にまつわる雑記

 

・テレビで創作落語を観ていた。落語というのものは台本がないから、師匠の下へ教わりに行く。そして弟子と師匠は真向かいに座り、作品を口伝えに教わる。そうして残された作品だけが現代にまで続いていると聞いたことがある。僕が見たのは昭和に作られた作品で、舞台は江戸ではなく東京の街。亭主関白に苦しむ女房の話で、夫婦喧嘩は落語の定番のようなものだが、落語らしいこじゃれた馬鹿なやりとりもほとんどなく独特な作品だった。昭和のテレビネタか何かが途中にあって、その元ネタは僕にはわからなかった。会場の年齢層の人たちには伝わっただろうけど。この作品を教わりたい、真似したい、という落語家がさらに出てこない限り、この作品も淘汰されてしまうのだろう。もちろん映像資料として残るから、その限りではこの文明が続く限り残るともいえるけれど。きっと江戸時代には、もっともっともっと沢山の作品があったのだろうし、何らかの原因で伝わらなかっためちゃくちゃ面白い話もあるんだろうなと思いを馳せる。

 

いしかわじゅんさんの「吉祥寺キャットウォーク」という漫画が好きで、これに出てくる落語家たちはやってることがヤバくても、浮世のぎとぎとした感じとは違って素朴でかわいげがある。落語のカリカチュアの要素そのものを漫画で擬人化したという感じで興味深い。「へうげもの」の山田芳裕さんが作った「大正野郎」という漫画も好きだ。この作品はバブル期くらいの東京の浅草で、大正浪漫にかぶれた大学生が周りの同世代とのギャップをものともせず自分を貫いて暮らしている日常を描いた作品で、僕はこの作品にはずいぶん救われた。主人公がなんだか気分がくさくさするから笑いに行こうと、映画館ではなく落語に行くというシーンがあったような気がするのだが、調べたけど出てこなかった。次の帰省時にどっちの漫画も持って帰ろう。

 

・確かに、スマホのない時代、映画のない時代、テレビのない時代、ラジオのない時代に人はどうやって現実逃避をしていたか考えてみることで、200年前の人たちの歓びや悲しみを、少しは感じることができる。人間の営みを生きる理由を芸術を、少しは考えるきっかけになる。

 

・東京に住んでいたとき、僕は何度か落語を観に行った。落語家ひとりひとりが喋り方も雰囲気も年齢も全然違ってほんとうに面白い。盲目でろくにひとりで立てず、話も途中で飛び飛びになるほど年を取った老いた落語家が出てきたときなんかはその意地に息をのんだ。その日は40代くらいの眼鏡をかけた痩せたある落語家がいて、彼は馬鹿面白かった。雰囲気から話からなにからツボに入ってしまって、あんなに笑ったのは人生で数えるほどだ。それ以来彼のことが気になっていて、ちょいちょい活動を追っている。浅草の古い喫茶店に行った後やホッピー通りで酔いつぶれに行くその前に、腹を抱えるほど笑わせてくれるお気に入りの落語家に会えるかどうか探しに行ってみるのもいいかもしれない。

 

・別に落語ファンという訳でもないし、詳しいわけでもないけれど、落語について書きたくなったから書いてみた。日々何かを書いて、それをひとに読んでもらって、という書き物の練習の一環に過ぎないけれど、書いていて楽しかった。「書く」という行為に没頭して光陰矢の如し、あっという間にバイトの時間が近づいている。準備しなきゃだけどめんどくさいなあ・・・。

 

「バイトとかけまして新幹線旅行と解く」

「その心は?」

「どちらも遅刻(四国)はいけません」

(礼)

詩の墓場

昔、伊勢丹の地下で販売員をしていたときに隣の店の女の子が写真家だと知り彼女の撮った何枚かの写真の連作に僕が詩をつけて発表しようとなって書いたやつの墓。それからすぐ僕はカナダに行って連絡も取らなかったので、彼女の個展や僕の詩がどうなったかは知らない。昨日クラブから朝帰りした話を書いたからかこの詩を思い出した。だからここに供養。

 

 

「無題」

 

わたしは見た


鳥が深海を飛んでいて


まだらの猫が空を泳いでいた


人魚の目を手に入れて


わたしは夢を彷徨っている


ほんのりと赤い部屋に大きなまるい物体があった


わたしがそれに触れると突如


それはわたしをつかまえて強い力で中へと引きずり込んだ


すぐにわたしは溶かされてわたしと物体は無数に分裂を始めた


その数幾千幾万幾十億


すんごいむかし僕らは魚だったのかなと


細切れのひとつがささやいてくる


そんなの知らない


でもそうだったら素敵だと思う


長い長い長い時間と何世代もの受け継がれた命を費やしてきた果てに


わたしたちが日がな一日プランクトンを探す以外にできるようになったこと


日曜午後のぶらぶら歩き 小銭の計算 昼夜ぶっ通しで続く誕生日パーティ ほろ酔い気分でサロメ踊り 叫びの朗読  耳の裏への柔らかな口づけ


残念ながら地球はもうすぐ終わり未来はないと聞かされて育つ子供たち


それならばそれで


音楽の波間に飛び込んで


極彩色の海の中で手に手を取り合って飛び跳ねよう


そして踊り疲れアルコールが染み込んだ全身を朝陽に晒し


終焉に向かう始発列車を待つだけ

3/18 "Love My Life"

今日は始発で5時半ごろに家に帰ってきた。眠さと疲労と興奮の余韻がアルコールと共に血管の中でカクテルになって、ぐちゃぐちゃになっていた僕たち三人は、キッチンルームにたどり着くや否や腰が抜けたように座り込んだ。Aが僕とCにホットミルクを作ってくれて、寒さで縮こまった身体を和らげてくれた。

明るんできた空を横目に、部屋に戻るとたちまち眠り込んだのだが、よく眠れたとは言い難い。

10時ごろに目を覚ました。隣室のKvとその彼女がずっと楽しそうに笑っているのが聞こえてきて、心が和んだ。それから、バイクの教習所で知り合って友達になったRが車で迎えに来てくれるというので風呂などに入って待つことにした。VやAもそのころ起きてきていて、昨夜のことなど話して笑った。

やがて約束の12時になったのでRと井尻駅前のハンバーガーショップに行った。バーガーは値段も高くないし中身もしっかりしていていい感じだ。そして車の中で一緒に食べた。Rは、10年前に出会ったときは背中まで長い黒髪を伸ばしてがりがりに痩せた男だったが、今では髪を短く刈り上げて、スーツ越しにも膨らんだ腹がわかる。煙草も紙巻きを吸わなくなっている。優しい男が家庭を持つというのはそういうことだ。仕事は本当に大変そうだが、彼の親しみのある力の抜けた長崎訛りが好きだ。Rの暮らしは、いかにも満たされているという感じで、僕はうれしくなった。それからRは仕事に戻っていった。

僕はキッチンに戻り、テーブルに覆いかぶさるようにして食事をしている脱力モードのKaとワーホリについてや手段と目的がどうこうなんて話なんかをした。若いKaの中にある、まだ表現する方法を知らないでいる才能と感性が、外に出たがって蠢いているのを感じる。本人にはそれが得体のしれない焦燥感や不安として感じられるのだろう。まあ、そんなこんなで話は終わり、部屋への帰りしな、風呂上りのCと階段前で出会った。昨夜あれだけ動き続けていたのに、いつもと同じニコニコした顔で「2時に起きたぁ」「めっちゃ元気ぃ」と日本語で答えながらケロリとしていた。僕に残された休日は残り半分。明日からはまた昼夜連勤や片方だけの出勤が続き、日曜日まで休みの日と呼べる日はない。書店に行って現代詩手帖ユリイカを買いに行った。月に二回詩を投稿しようと決め、部屋で詩を書こうとしたけれど、眠くてどうにもならなかった。舌が昨日より大きくなった口内炎に触れる。あからさまに免疫が落ちていて、これは休養が必要なサインだと感じて眠ることにした。

陽が落ち切ったあとに目が覚めて、冷凍していた豚肉と、近所の八百屋で買ったニラを炒めて夕飯を作った。ものすごく久しぶりの自炊だった。

バイト終わりのAが戻っていてキュウリを分けてくれたので、お返しに八百屋で買ったキウイを一緒に食べた。

キッチンで食事をしながらテレビを見た。フランス文学者が蒐集している古書について語っていた。

今日はそんな感じだ。おやすみなさい。

春はもう街角に

このところは悪くない。それは、春が街角にやってきたからなのか、あまりに忙しく働きすぎているからなのかはわからないけれど。久しぶりにカフェにひとり。頭のいいバカにプロデュースされたポップなロックも、メッセージも遊び心も感じない焼き回しのラテアートが施されたココアでさえも僕を滅入らせることはできない。

たっぷり昼まで眠るつもりで夜更かししたのに、目が覚めると朝だった。暮らしのリズムはそう簡単には崩れない。朝も夜も働いている。昼はコールセンターで、夜は黒服。朝9時の始業に間に合うように家を出て、電車で天神まで行き、そこで8時間働く。それから一度帰って着替えてバイクに乗って夜の店で大体6時間仕事をする。家から駅までは遠いので、徒歩移動は全部ペニーに乗って人や車を避けて行く。それらが休みの日には寿司の配達のバイトをやっている。1日休みはほとんどなくて、時間もないし体力もない。肌が荒れ、口内炎が出来始めた。それでもいま、なぜだか心は晴れやかだ。2月のひどい雨雲がどこかへ出掛けて行ったからか、くよくよする暇も無いほど忙しいからか。

金を稼がないといけない。僕は海外にワーホリに行くのだ。もう一度。なんのためかはわからない。死ぬまでの暇つぶしの一環だとかそんなことは言わずに、世界を見たいが金がないからということにしておこう。つきつめれば、そんなのどっちも変わりゃしないのだが。

今日は夜の仕事だけだから、溜まっているタスクをこなす。掃除に洗濯に買い物にその他もろもろ。

腹が減ったからもう帰ろう。もうカフェで1200円も使ったから、自炊をするべきなんだけれど、井尻駅にはいい大衆食堂がある。でももう3時か。この時間やってなさそうだな。腹が減るのは決まって昼の営業が終わって夜営業の始まる前。そんな事実さえも今日の僕を滅入らせることはできない。