落語にまつわる雑記

 

・テレビで創作落語を観ていた。落語というのものは台本がないから、師匠の下へ教わりに行く。そして弟子と師匠は真向かいに座り、作品を口伝えに教わる。そうして残された作品だけが現代にまで続いていると聞いたことがある。僕が見たのは昭和に作られた作品で、舞台は江戸ではなく東京の街。亭主関白に苦しむ女房の話で、夫婦喧嘩は落語の定番のようなものだが、落語らしいこじゃれた馬鹿なやりとりもほとんどなく独特な作品だった。昭和のテレビネタか何かが途中にあって、その元ネタは僕にはわからなかった。会場の年齢層の人たちには伝わっただろうけど。この作品を教わりたい、真似したい、という落語家がさらに出てこない限り、この作品も淘汰されてしまうのだろう。もちろん映像資料として残るから、その限りではこの文明が続く限り残るともいえるけれど。きっと江戸時代には、もっともっともっと沢山の作品があったのだろうし、何らかの原因で伝わらなかっためちゃくちゃ面白い話もあるんだろうなと思いを馳せる。

 

いしかわじゅんさんの「吉祥寺キャットウォーク」という漫画が好きで、これに出てくる落語家たちはやってることがヤバくても、浮世のぎとぎとした感じとは違って素朴でかわいげがある。落語のカリカチュアの要素そのものを漫画で擬人化したという感じで興味深い。「へうげもの」の山田芳裕さんが作った「大正野郎」という漫画も好きだ。この作品はバブル期くらいの東京の浅草で、大正浪漫にかぶれた大学生が周りの同世代とのギャップをものともせず自分を貫いて暮らしている日常を描いた作品で、僕はこの作品にはずいぶん救われた。主人公がなんだか気分がくさくさするから笑いに行こうと、映画館ではなく落語に行くというシーンがあったような気がするのだが、調べたけど出てこなかった。次の帰省時にどっちの漫画も持って帰ろう。

 

・確かに、スマホのない時代、映画のない時代、テレビのない時代、ラジオのない時代に人はどうやって現実逃避をしていたか考えてみることで、200年前の人たちの歓びや悲しみを、少しは感じることができる。人間の営みを生きる理由を芸術を、少しは考えるきっかけになる。

 

・東京に住んでいたとき、僕は何度か落語を観に行った。落語家ひとりひとりが喋り方も雰囲気も年齢も全然違ってほんとうに面白い。盲目でろくにひとりで立てず、話も途中で飛び飛びになるほど年を取った老いた落語家が出てきたときなんかはその意地に息をのんだ。その日は40代くらいの眼鏡をかけた痩せたある落語家がいて、彼は馬鹿面白かった。雰囲気から話からなにからツボに入ってしまって、あんなに笑ったのは人生で数えるほどだ。それ以来彼のことが気になっていて、ちょいちょい活動を追っている。浅草の古い喫茶店に行った後やホッピー通りで酔いつぶれに行くその前に、腹を抱えるほど笑わせてくれるお気に入りの落語家に会えるかどうか探しに行ってみるのもいいかもしれない。

 

・別に落語ファンという訳でもないし、詳しいわけでもないけれど、落語について書きたくなったから書いてみた。日々何かを書いて、それをひとに読んでもらって、という書き物の練習の一環に過ぎないけれど、書いていて楽しかった。「書く」という行為に没頭して光陰矢の如し、あっという間にバイトの時間が近づいている。準備しなきゃだけどめんどくさいなあ・・・。

 

「バイトとかけまして新幹線旅行と解く」

「その心は?」

「どちらも遅刻(四国)はいけません」

(礼)