4月17日 「おやすみ」

昨日と今日は仕事が休みだった。舌も怪我しているし粘液嚢胞も治らない。ずっと風邪をひいていて、これもまたいつまで経っても治らないから、久しぶりに休みの日に何も予定を入れずにしっかり休んだ。この二日間でしたことはヨガと食料品の買い物とギターを弾いたことくらいだ。掃除もろくにやっていない。

それでもまだ少し疲れを感じている。ゴールデンウィークに向けて仕事は忙しくなる一方だろうから、もっと自分をいたわらないと体を壊してしまう。

少しだけ本も読んだ。太宰治の手紙集をランダムに読んでいて心に残った一文がある。

文化と書いて、それに、文化(ハニカミ)というルビをふること、大賛成。私は優という字を考えます。これは優(すぐ)れるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でも、もう一つ読み方があるでしょう? 優(やさ)しいとも読みます。そうして、この字をよく見ると、人偏(にんべん)に憂うると書いています。人を憂える、ひとの寂しさわびしさ、つらさに敏感なこと、これが優しさであり、また人間としていちばん優れていることじゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。(中略)「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、まけるものです、それでよいと思います。私は自身を「滅亡の民」だと思っています。まけてほろびて、そのつぶやきが、私たちの文学じゃないかしらん。

それについて考えているとき、タイミングよくある出来事が起きた。

今日、僕の住む国際シェアハウスに元住人の日本人の女の子が東京からやって来るとのことだった。彼女はカバン一つでヨーロッパをめぐり、現地でお金を稼いだり援助してもらいながらほぼ無一文のまま旅をしたというのだ。その旅を終えて旅の記録をまとめたという本に僕は一度目を通していた。内容は旅先でのたくさんの写真と、簡単な説明や出来事を述べた文章が添えられていた。タイトルは「LOVE」。大体の写真に自分の顔が写っていて、巻頭の文章にはガンジーの言葉を引用されていた。巻末の彼女の言葉には「愛とは何かと問われたらよくわからないけれどとにかく愛を拡めたい」などとも書かれていた。書かれていた出来事も、旅先の異国の人たちに自分はどんなことをしてもらったかということばかり。歪んだ自己愛でしかないと思って閉口した。

実際に会ったらどんな感じの人なのか、あんまりいい予感はしなかったけれど、本というツールで表現するという面では近しいものがあったし、彼女と仲のいい現住人の子は素直で素敵な人なので、その点では信用できたし、会うのはそれなりに楽しみだった。考え方は違えど、話しているうちに何か得られ学べるものもあるだろうと思っていた。

その元住人の女の子は共用のリビングルームのソファに座っていた。僕が部屋に入ると開口一番「Hi」と言われた。「Hi」と返すと彼女は「日本人?」と聞いてきた。「ええ」と僕が言うと、彼女は手の甲を僕の方に向けて払いながら「それ(日本人)ならいいや」と言って二度と僕の方を見なかった。彼女の考えるLOVEとは一体なんだろう。どうして彼女はみんな自分のことが好きで、あくまで自分は選ぶ側だと思っているのだろう。「いま日本人だからって手で払いのけたよね?」と僕は笑いながら言った。彼女は僕の苦言に返事をせずに、その場にいた共通の友人との会話を再開した。「この前のポルトガル人のサーファーは筋肉凄すぎてセックスの時コントロールできる奴だった」「昨日のアメリカ人は私との体の相性が良すぎてヤバかったらしい」「福岡はマジでマッチングアプリに外国人いなさすぎ。泊まるとこ見つかんないじゃん、東京なら一瞬なのに」などなど。どうして自らをそして他人を道具化してしまうのか。彼女は海外での旅で一体何を見て何を考えていたのだろう。ここで最初に引用した太宰の手紙に戻ってほしい。彼女の態度にハニカミなどどこにもない。文化的態度とは呼び難い。といっても、生物学的な視点で見れば僕や太宰治の態度は弱く頼りなく淘汰されうる性質で、彼女のやり方はある種僕たちより望ましいものだろう。

しかしまあ、まさか日本人から人種差別を喰らうとは思いもしなかった。自分や一部の人間だけがコスモポリタンだと思い込んでいる人間はたちの悪い選民主義のナショナリストでしかない。だから僕はこうして書くことで文学的にささやかな意趣返しをするのだ。これこそが滅亡の民のやり方なのだ。彼女は自分だけが特別であると信じている。他人に対して冷酷で、盲目で、なんだかもの悲しい人だった。彼女の考える愛とは何か直接訊いてみたかった。

海外を巡ってティンダーツアーなんかすると動物みたいな人間になるということは分かった。